久坂部羊著「祝葬」を読んで、いきすぎた医療を考える

久坂部羊著「祝葬」を読んで、いきすぎた医療を考える

ようこそ“もめん”です。

医療の進歩とともに私たちの寿命は大幅に伸びました。

ところが、いのちを延ばすことだけにとらわれてしまうと、思いもよらない苦しみを味わうことになる場合があります。

長生きをしたばかりに悲しい思いをすることもあります。

長生きは本当に幸せなのか?

どう生きるべきなのか?

医療とはなにか?

私たちはどう死ねばよいのか?

という大きなテーマを、私たち読者に投げかける作品に出合いました。

今日ご紹介するのは、現役の医師作家・久坂部羊さんの小説「祝葬」です。

著者:久坂部羊(くさかべよう)さんのプロフィール

1955年大阪府生まれ。

医師、作家。

大阪大学医学部卒業外務省の医務官として9年間海外で勤務した後、高齢者を対象とした在宅訪問診療に従事。

2003年「廃用身」で作家デビュー。

2014年「悪医」で第3回日本医療小説大賞を受賞。

2015年「移植屋さん」で第8回上方落語台本優秀賞を受賞。

久坂部羊著「祝葬」ストーリー

物語は、若い医師の不可解な死からはじまります。

「もし、君が僕の葬式に来てくれるようなことになったら、そのときは僕を祝福してくれ」

自分の死を暗示するような謎の言葉を遺し、37歳の若さで死んだ医師・土岐佑介。

代々信州を地盤とする医師の家系に生まれ、佑介自身も神経内科を専門にする医師でした。

土岐一族に生まれた佑介は、生前、自分たち一族には「早死にの呪い」がかけられていると語っていたのです。

「早死にの呪い」がかけられていると言っていた土岐佑介の言葉通り、土岐一族の医師はほぼ全員が早死にしていました。

土岐一族の医師たちの死をたどりながら、医師という職業を選んだ人間と、医師とかかわる人たちの人間模様がおぞましいほどにつづられています。

物語は、5つの短編に分かれていて、それらが連なりひとつの物語になっています。

医師も人間。

医療者の部分と人間の部分。

一人ひとりの医師の医療への想いや葛藤、そして人としての生き様が描かれているのですが、物語のなかに医療とは何か?長生きは本当に幸せなのか?と考えさせられる部分がたくさんあります。

「祝葬」というタイトルにひかれて手にとりました。

私は、最初、殺人事件を題材にした小説だとばかり思っていました。

ところが読み進めていくと、大きなテーマを突き付けられていることに気がつくのです。

最終章「忌寿」では、2068年の未来が描かれています。

未来では、人々の暮らしも様変わりしており、「がん」は治る病気になっていました。

しかし人々のいのちへの関心は変わってはいませんでした。

いつの時代でも、健康で長生きし、幸せのまま上手に死にたいと思うのは人の常なのですね。

88歳になった手島崇医師が佑介の兄・手島信介に逢いに行きます。

早死にの家系にもかかわらず佑介の兄・信介は、中度の脳委縮こそありますが91歳で存命でした。

そこで目にしたものは、信介と佑介の母・土岐信美の姿です。

114歳になった信美が、生命維持装置につながれ、両目をカット見開いてすさまじい形相で天井をにらんでいる描写には背筋が凍る思いです。

同行した手島崇のガールフレンド・西方侑利香がいうのです。

昔から過ぎたるは猶及ばざるが如しって言うけど、医療の場合は、過ぎたるは及ばざるより猶悪しですね。

って。

医療者にもいつか、必ず死が訪れます。

誰にでもやってくる死。

でも、どう死ぬのかは誰にもわからないことなのです。

生きるということと、死ぬということ。

どう生きればよいのか?

私たちはどう死ねばよいのか?

大きなテーマが描かれています。

久坂部羊著「祝葬」をよんで考えた、がんばる医療とみまもる医療

本を読み終わって、真っ先に思い出したのは、看護師になりたての頃に出会った内視鏡検査のドクターの言葉でした。

当時、私は消化器の専門病院に勤務していまして、毎日、胃カメラ検査や大腸検査介助に忙しく明け暮れておりました。

ある日、80歳代の患者さんが検査を受けにいらっしゃいました。

患者さんの既往症などを検査ドクターに告げに行くと、ドクターが私に言ったのです。

「検査する意味があるのかな?ある程度の歳になったら、あらがうことなく自然に任せる方が良いこともある…」と。

ある程度の歳になったら、検査は必要ないというのだろうか…

いのちを守る、救って助けるのが医者の責務だと思っていたので、ドクターの言葉は、とても意外で驚きました。

いやいや、一人ひとつの大切ないのちなのだ…

いのちに年齢は関係ないでしょ…

と思いつつも、ドクターの言葉はずっと私の心にひっかかっておりました。

何年か後、私は総合病院に勤務するようになって、ドクターの言わんとすることが理解できるような場面に出会います。

二週間に一度、輸血を受けにいらっしゃる90代のおばあちゃん。

血液の病気です。

家族に連れられて車いすでやってきます。

張りのない腕のそれはそれは細~い細い血管に、輸血のための針を刺すのも至難の業。

輸血バッグにつながれたまま6時間、ベッドに寝かされてすごします。

帰りたいよ~を連発するおばあちゃん。

ご本人は、何のために病院に来ているのかもわからない状態です。

ご本人が望む治療だろうか?

治療する意味があるのだろうか?

だけど輸血しなければ、いのちがついえてしまう…

こんなとき医療者は、堂々巡りの葛藤を繰り返して患者さんに向き合うことになります。

堂々巡りの中で、あの時のドクターの言葉がうかびました。

いのちを救うためにがんばらないといけないときがある反面、がんばらずにみまもる医療も時として必要だとドクターは言いたかったのではないかと気づいたのです。

だいぶ以前ですが、脳の病気で意識がなくなり、強力な治療によっていのちは助かったけれど、植物状態になってしまったという患者さんの看護(介護)をしたことがあります。

自発呼吸はあるが、手足の関節は拘縮しベッドに寝かされたままです。

胃部に胃ろうが増設されていて、食事は胃ろうからの経管栄養です。

いのちを救うためにがんばったことが、思わぬ結果を招いてしまったという典型です。

患者さんを目の前にして、医療は不確かなものだと思ったものです。

だって誰にも先が見えないのですから…

いつか患者さんの意識が戻る日が来るかもしれない…

でも、いのちが尽きるまでずっとこのままかもしれない…

未来がみえたらどんなに良いでしょう。

医師や医療者は神ではありません。

人間だからどうすることもできないことがあるのです。

医療者は常に無力感を感じながら、葛藤をくり返していのちと向きあっています。

著者の久坂部羊先生もいろんな患者さんと接してきたのだろうと思います。

じゃあ実際に自分自身が、家族が、大切な人がいのちの終わりを迎えようとしているとき、どう向き合えばよいのだろうか。

医療者のくせに、冷静にいられる自信がないのです。

いのちを手放すことを割り切れるだろうか?

そっとそばにいて見守ることができるだろうか?

答えのみつからない問題です。

まとめ:久坂部羊著「祝葬」を読んで、いきすぎた医療を考える

ゾワゾワわさわさ感がいつまでも残る小説です。

それは読者に一石を投じる内容だからです。

そして、その問いかけは、簡単に答えがみつからないものだからです。

小説は、次の言葉で終わります。

人はだれしも、ただ一度だけ、自分の死を死ぬ以外にはない

元気なうちは精一杯生きることを楽しみたいと思います。

そして願いは一つ。

苦しまず、穏やかな死を迎えたいと切に思います。

本日も最後までおつき合いくださいましてありがとうございました。

次回も、お楽しみに♪